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はじめに
創業者のお話です。
当社に脈々と受け継がれる経営理念の成り立ちを北村 和造(創業者)、北村 ミツエ(初代社長、創業者の妻)、北村 繁和(二代目社長、前会長)の3代に渡るエピソードを通じて、ご理解頂ければと思います。長いお話ですが、堅い話ではありませんので、気軽にお読み頂ければ幸いです。
STORY 01
一念発起
「ご主人、めっきとかいう仕事に廻してください」小柄ながら意気込みだけは誰にも負けない12才の和造少年(創業者)は、しつこく懇願した。
丁稚働きを転々としたあげく、ようやく仕事らしい仕事についたロクロ職人とはいえ、小柄で力のない和造にとって足踏みロクロでの挽き物加工は、ともすれば、先輩たちから口汚なく罵られるような材料を生み出すのみで、とても一人前になれそうにもなかったからです。一生懸命、足を動かしていると手が留守になり、手先に力を入れて挽き物をしていると思うような回転をしなくなります。モーターという動力源を使用しなかった時代の話で必ずしも和造のわがままとはいえない、体力を必要とする仕事でした。
和造の父 米次郎は、三重県上野市で代々名士であった北村善七の次男 奈良次郎の養弟となり、長女 ま津と結婚するという持参金つきの嫁取りでしたが、生来の放蕩を改めず、和造が小学校を終える頃には、見るに見かねた養父兄から勘当同様に追い出され、生来の三重県にも居れず、和造と仲の良かった弟は他家の養子に出され、可愛い妹は父の生家に預けられるという悲しい離別となりました。
こうして、両親に連れられて放浪の旅に出た長男和造にとっては、なんとか早く一人前の職人になりたいという強い一念が根ざしていました。そして大阪へ、年を経ずして京都へと安住の地を求めて親子3人で京都三条へ来たものの、手に職のない父にとっては、一家の生計を立てることは、容易でなく、その日から父、母、子とそれぞれ別れ別れになっての生活となりました。いがぐり頭の和造の京都での第一夜は呉服問屋の丁稚部屋でした。 こうして丁稚働きを転々としてロクロ職人となり、そして最後にこれこそ自分の転職と懇願したのがめっきでした。
多感な少年期を何も報われることもなく、ただ早く両親、弟妹達と一緒に生活がしたいという気持ちで苦労を重ねて成長した和造にとっては、思い出すのも嫌な少年時代であったのか、あまり多くを語ろうとはしませんでした。晩年、養女に迎えられた弘子(前会長の妻)を我が子以上に可愛がり、弘子が幼い頃から寝床を並べて過ごす際に語った思い出を繋ぎあわせると創業者北村和造のめっき業との縁を垣間見ることができます。
さて、そのめっき部門で数年間を過ごした和造は、めっき職人として自信が持てた頃を最後に丁稚先を後にしました。当時、職人は方々を渡り歩いて仕事上での武者修行を積む時代で、またそれを数多く重ねる程、箔が付くという風潮があり、大阪、神戸と技術の修得を重ね、めっき職人への道を選んでから10年余り、各地で修行に励んで再び京都の地を踏んだ時には生来のやる気と器量で一人前の職人に成長していました。
和造は東山二条の某めっき工場に技能者として招かれ、借家ながら一家を構えました。かつて幼くして父米次郎の生家で寂しい幼少時代を過ごし、両親を頼って京都に来ており、既に日本髪結として立派に成人し、兄の身の回りの世話をしていた妹ゆうも目を丸くするほどの稼ぎを和造は得るまでになっていました。
STORY 02
妻 ミツエとの出会い
和造の妻ミツエは、中島善之丞と菊枝の長女として三重県名賀郡美濃波多村の豪農のもとで明治33年2月3日に生まれました。役場助役を務めた厳父のもと、裕福な家庭で育ったようです。ミツエも年頃となり、また兄 勝が結婚し両親としては、早々に良縁をと願っていましたが、厳しい父とは反対に祖母は、色白で多少お転婆の孫娘が可愛くて仕方がなく、当時この地方では、どんな家に嫁いでも田畑の仕事はつきもので野良仕事に従事しない嫁はいないとされていましたが、この孫娘にはそれをさせたくないと心に念じていたようです。
案外祖母の願いが通じたのかもしれませんが、後に和造の妹ゆうがミツエに対して、中島家で何の不自由なく暮らせた娘さんが、なぜ和造のように兄弟の多い貧乏人の長男の嫁にきたのかと尋ねると「とにかく百姓仕事が嫌やった。それさえなければ何処でもよいと思った」と笑ったそうです。その気持ちは本当に貧しい生活を味わったことのない乙女時代のミツエにとっては無理からぬことでした。
和造の父 米次郎の養父の家はもともと資産家のため、立派に成長した和造の噂を耳にするにつけても当時の27才といえば嫁をとるにも遅い方で早く所帯を持たさなければと経済的にもかなりの支援をしたようです。また中島家も上野の北村家であれば家柄としても悪くないと思ったからでしょう。必ずしも祖母やミツエの密かな願い事のみで縁組みが進められたのではないようです。
当時同居していた夫の妹に仕えての新婚生活で節分の日生まれのミツエは縁起のよい日であることを知ってか知らずか、誕生日と結婚式を同じにするといって親を困らせました。また、何かと理由をつけては、田舎の親の家で気楽に過ごす日が当初は度々あったようですが、10才も年下の嫁を迎えた和造もそれを気にするほど心の狭い男ではなく、むしろ長い辛苦を乗り越えて近い将来必ずや自立すると深く心に決めている和造にとっては、今後どんな苦労をかけるか計り知れないと思い、その時まではと笑顔でミツエのわがままを聞き入れていたようでした。当時、家族同様に出入りしていた名川氏によると「夫婦仲はとっても良かった。年上の和造さんがとても甘やかしてはりました。」と言われ、創業後、夫の仕事を助けて和造を支える陰の力として、よく働いたミツエも「決して始めは夫のよき伴侶ではなかった」と笑っているのをみても、夫和造の苦労を重ねた人生体験が心の広い思いやりとなり、夫婦の絆を一層深いものにしたと思えてなりません。
和造にとってはかけがえのない嫁で和造の死後、京都の三女傑の一人とも言われ、困難な時代を女手一つで切り回していくが、ミツエも若い頃はなかなか思うようにいかなかったようです。
STORY 03
苦多くして楽なし
楽しいはずの新婚生活に甘えていられる和造ではありませんでしたし、中島家からミツエを迎えた周囲もそれを許しませんでした。ようやく独立を決心した和造は、その準備に多忙な日を送りました。
現在もそうであるように、めっき業は100%下請け加工で、しかも加工品がその姿を変えずして往復するのが常であるため、素材と加工品の運搬を考えておかねばなりません。また比較的電力を多く使用し、水商売と言われるくらいに水質の良い豊富な水が必要でした。したがって独立する場所は上記を満たす立地条件で選定されなければなりません。当時、京都の二条に島津製作所を中心とする諸工業が発達し、また寺町を中心に医療診療器材商が多くあり、それらの受注を目指すと共に疎水の豊富な水量に目をつけて、現在の三条通りを高瀬川沿いに少し下った西側、今は歓楽街の中心として賑わっている辺りに貸工場というよりは、少々広めの土地を借りたという方が分り易い程度のものが創業時の仕事場でした。
木製のタンクを並べ、ベルト掛けモーターで発電機を回してのめっきで、設備的には現在からすれば、想像出来ない程度のものでした。当時ミツエの出身地方では、結婚時のいわゆる嫁入り道具持参というものはなく、後日頃を見計らって持ち込むという風習でしたので、和造の創業時に相当の金銭が持参され、設備費の資金とされました。 故にミツエには花嫁道具は無く、事情を知らない隣近所相手に肩身の狭い思いもしたことでしょう。研磨職人1名、めっき補助作業者1名を加えて3名で事業を開始しました。当初は仕事も順調で創業後間もなくして昼の食事や忙しい時の夜業の夕食をと御飯を重そうに入れた大きいお櫃(おひつ)に、片手に鍋を下げたミツエが正面通り大黒町上ガルの家から三条の職場まで通う姿がよく見られたようです。
職人も5~6名に増えるまでには、月日を要しませんでした。創業当時は真鍮板を加工して作られた注射器入れやガ-ゼ缶等の医療器材や煙草のキセルの口金の研磨やニッケルめっきが主な仕事でした。 真鍮製品を化学研磨する方法の1つにキリンス仕上げというのがありますが、めっきの表面仕上げをきれいにするためには、素材の表面を平滑にしておく必要があります。当時はこの作業を高瀬川に入って付近を人が通らない時を見計らってやっていました。近頃は環境問題への配慮からめっき業に対する数々の規制が厳しさを増しましたが、当時は規制も厳しくなく、当然金属の表面を薬品で研磨するため猛烈なガスが煙のように発生していたそうです。今日ではとても想像もつかないことですが、当時の光景を想像すると不思議どころか、むしろ苦笑せざるを得ません。
ところで月日が経つにつれ、仕事は必ずしも順調に進むとは限りません。若い頃から仕事一途に過ごしてきた和造としては、よい仕事さえすればと思うのですが、世の中は和造のような心がけの者ばかりではなく、仕事が順調にいき、人数も増え、お得意先も数多くなるに従っていろいろと問題が起こったようです。
STORY 04
内助の功
夫の和造は、仕事熱心で技能も優秀でしたが、少なくとも優秀な事業家ではなかったようです。仕事をしても金を払ってくれない。得意先には集金にも行かない。といった具合で、所帯を切りまわすミツエにとっては、月末、盆、正月が来ても予定が立たないために口論も初めの頃はしていましたが、それも諦めミツエ自身が出かけて行っては、それなりに処理していたようです。
仕事が忙しければ自分自身で夜遅くまで頑張り、その都度ミツエは手伝いに馳せ参じて、内助の功を惜しまなかった様です。当時既に一歩職場を出ると、映画館の看板があるような賑やかさであったらしく、ミツエは一度夫婦で映画に行きたいと思いながらも、いつも広告の移り変わるのを恨めしそうに眼を走らせながら人通りも少なくなった道すがら家路に急いだものですと述懐していました。
しかし、創業以来、新婚間も無い1年間を除いて東山馬町の元北村鍍金本社跡に工場を移転するまでの10年間は浮き沈みの連続で順調になれば金がいる、不調になれば苦労するの繰り返しで苦多くして楽少しの時代であったようです。ミツエ自身も何度か実家に金策に走ったようですが、何不自由のない環境から野良仕事嫌さに、年若くして京都の地に嫁いだミツエもこうした中にあって、不朽の事業魂というものが、養われていったのでしょうか。いや、何とかして主人のために尽くそうとする芯の強さがそうさせたのでしょう。
こうした内助の功を重ねたミツエは、決して男勝りのような女性ではありませんでした。忙しい家業の合間をみては、数多い主人の弟妹に対して季節の変わり目には、金銭ではできないが、持ち前の器用さで着物を仕立てたり、編物を造ったりして、優しい姉として心遣いは忘れませんでしたし、使用人の面倒も実によく気がついたようです。
特にどんなに苦しい世帯の中にあっても、やりくりして、正月には新しい社名入りの半纏を準備したり、雨降りに備えて大きな字で書いた雨傘を用意しておく等、ただ単に女らしい心遣いのみならず、家業もちゃんと宣伝するという天性を持ち合わせていたといえます。
こうした姉の苦労を見るにつけ、何とか力になろうとしたミツエの弟達だが、特に三男孝直(元相談役)が、この道に入ったのは工場が東山馬町に移転して間もない頃でした。
STORY 05
和造の死
しかし、幸せそうにみえた一家の生活も、そう長くは続きませんでした。養育していた娘の一人は嫁ぎ、仕事を任せていた孝直も幼子達を残し、ミツエに家族を託して戦場に赴きました。
本土空襲も激しさを増し、都市は焼け野原となり、唯一残った京都でも仕事をやろうにも仕事も少なく、機材も底をつき工場の中に侘しさが目立つようになりました。そして長かった戦争も広島、長崎への原爆投下を最後に敗戦の日を迎えました。幸い国内のみに留まることの出来た孝直は、やがて帰還したものの工場に一歩足を踏み入れるや、その荒れように呆然としました。
そして、終戦後の混乱もようやく復興の兆しを見せるにつれて工場も整備され、本来の仕事が出来るようになりました。一方、戦場に駆り出された人達も徐々に職場に復帰してきました。ミツエも「あの娘を嫁入りに」、「あの若者に所帯を」と相変わらず周りの人達の世話に奔走する在りし日の姿が戻ってきました。
生来、ものに執着心がないというのか、出せば入るというミツエ独特の哲学からか、まだまだ物資の不足した時期でもありましたので自分自身の持ち物から間に合いそうなものは惜しげも無く人に与え、借金こそしませんでしたが、タンスも軽くなっていきました。
実子なきがゆえに賑やかな事が好きであったミツエは、自分で尽くせるだけ数多くの人に世話をしておけば、晩年わびしい生活を送ることもないであろうと本能的にそうさせたのか本当に人によく尽くしていたようです。しかし、現実はそのようにはいきませんでした。昭和25年春まだ浅い2月、風邪をこじらせた主人和造は肺炎を併発してミツエの必死の看病の甲斐もなく、多くの人に見守られて帰らぬ人となりました。
STORY 06
後世の師達との出会い
創業者和造の突然の死は、あまりにも悲しい現実でした。それはミツエ個人、30年間手塩にかけて創り上げてきた家業、また働く人達にも同様でした。勿論ミツエ一人で解決できるはずがなく、途方にくれるのみでした。それは、ただ悲しめば終わる、我慢すれば良いというものではなく、それぞれ解決策を考えなくてはいけない問題ばかりで、その中でも和造が残した事業の存続にかかわるような大事件も発生しました。勿論、策を共に考えてくれそうな人には、手当たり次第相談のため東奔西走しました。そして求め得た人達は、彼女の人生を大きく変え、大いに力づけてくれました。その方々はミツエの後世の師となりました。
身の回りの相談は名川 栄起氏、仕事上の師として技術関係は友野 理平博士、経営法律問題は高山 義三元市長 高弟の松井 優治弁護士、自分自身で判断しかねる場合は、運命鑑定家の竹谷 聡進先生、憩いと修養に煎茶道泰山流家元 崩場 泰山先生等々それぞれの立場からの支援頂いた方々です。このブレーンとなられた方々にミツエが口癖のように「あなたこなたのおかげで」といっていた言葉に万感の思いと感謝が込められています。
また、こうした方々のご支援もミツエが京都に嫁いで以来の長い人生の中に折に触れて、その輪を拡げていった所産です。常に神仏を信じ「徳」を積むことに生き、甲斐を求めて過ごした一生は、去るものもあり、集いくるものもあります。害するものもあれば助けるものもあります。因果応報の世界であったといえます。
こうしたミツエの働きによって、家業も有限会社北村鍍金工業所と法人化し、幼くして養育してきた実弟 孝直の長女 弘子を養女にし、諸々の出来事も全て好結果を得て、落ち着きを取り戻していきました。
事業は新たに有力なお得意先を得て、徐々に活況を呈してきたものの、まだまだ安定感を感じるまでには程遠かったが、めっき加工も「めっきが剥げる」と贋物の代名詞であった時代から、めっきは頼りになるもの、機械金属部品にとってなくてはならない存在へと移り変わりました。朝鮮動乱景気も終わりを告げ、日本経済の発展もようやく着実に成長を遂げようとする時でした。
新技術、新機材と業界も大きな変革期を迎え、競争相手となる同業者も数多く出現してきました。苦難の末、新しい門出をした北村鍍金は常に資金不足に悩まされ、相次ぐ経済改革と激しいインフレにより、戦前の資産は何の役にも立ちませんでした。
STORY 07
防衛庁(現 防衛省)認定
一方、工場では実弟 孝直が亡夫に代わって采配を振るい、和造にも劣らぬ熱意でしたが、仕事一点張りな所まで本当に良く似ていました。いい仕事がしたい、立派な設備が欲しいと経営や資金を無視した欲望に姉ミツエを困らせたのもこの頃です。
そして、めっきの品質も段々と厳しさを増してきたものの、まだまだ金儲けするつもりであれば、いわば色さえついていれば金になる時代でもありました。その最中、孝直の眼を輝かせる事が起きました。米国MIL規格を実施する防衛庁認定工場になることです。
いい仕事をしたい、他社でできないものをやりたい、と常々思っていた孝直にとっては異常なまでに執念を燃やしました。具体的には昭和32年、防衛庁が航空機の国産化に伴い、その鍍金部分を北村鍍金が担当することに決まりました。現在では、めっき作業に規格とか作業標準等が一般的に用いられていますが、当時はまだまだ町工場が主体のめっき業では耳にする言葉ではありませんでした。防衛庁の認定対象となったのは、特殊工程である鍍金設備と鍍金作業工程であり、当時の三菱重工(株)大江製作所の香村技師より指導を受けることになりました。
同技師は、「北村さんの工場は町工場ではなくて村工場だ」と管理の重要性を力説され、当社の奮起をうながす事に努力されました。現在の品質管理の常識からすれば当然ですが、当時としては耳新しいことばかりで、香村技師の指導により技術知識のレベルアップ、検査機器の購入、機械設備の整備、管理技術の導入と大変な苦労と努力を重ねて、ようやく認定に合格しました。
しかし、当時は受注量も極めて少なく、事業経営からすると利益に繋がるものではなく、通常作業にこの管理手法を取り入れられるような体制ではありませんでした。
防衛庁認定工場という名誉ある看板を掲げた北村鍍金に対して同業者は好業績を疑いませんでしたが、当事者は返答に困惑するという状態でおおよそ業績に寄与するというような仕事ではありませんでした。しかし、こうした努力が、企業の将来にとってどれほどの大きい影響をもたらすかについて当時は知る由も無く、むしろこうした仕事をする度に難しい書類を相手に特別な作業や記録をしなければならないため、若い技術者には孝直の満足感に反して頭痛の種でした。 この経験無しには、現在の電子部品や半導体材料を扱う事が可能となるまでの成長は望めなかったでしょう。
一方ミツエは、社長として事業経営に携わるには、既に若さと希望を失った女性でもあり、また時代の変化と共に過去の経験のみに頼れるほど企業を取り巻く規則や厳しさは容易なものではなくなっていました。
従来の従業員が働かせてもらう時代から、従業員に働いてもらう時代に変わりつつある時であり、老経営者のとまどいは大きく、事業経営に失望していました。しかし、昔から変わることなく若い人達の幸せを願って過ごしてきたミツエの人生観は、世の中の移り変わりに関係なく、変わることはなかったようです。
そして養女に迎えた弘子が年頃に成長し、良縁をと心に決しての毎日でした。世間の常として弘子の妹が先に嫁いでゆくことは、如何に養女として他家に入った長女としても、ミツエの胸中では、とても強い忍耐のいったことは理解できる事です。
当時の皇太子殿下が民間出身の妃殿下をと、戦前までは考えることもできなかったことが大ニュースとなり、微笑ましいロマンスの話題が世間に明るさを与え、名実共に日本の民主化が確立したといえる年を迎えて間もなく、皇太子と美智子妃殿下のお幸せにあやかろうと空前の結婚ブームが予測され、ミツエもいよいよ今度こそ最後であれと願う心での決断がありました。
STORY 08
新しい力
昭和34年、繁和(前会長)はミツエの養子となり、養女弘子と同年3月結婚、一男一女の父となりました。 和洋家具製造卸業を営む祖父庄一郎の「商売人の子は、好不況の無い役人にする」との考えで、教育者となった父吉郎の男兄弟3人の末っ子として、広島県の山間部にある鵜飼町で満州事変勃発の年1931年6月に生まれました。
幼少の頃、海岸近くにある母の生家で暮らしていた祖父母のもとで、可愛がられて育ちました。この頃、海軍兵学校、海軍大学と進み、旅順港閉塞作戦に出撃し、若くして散った林八大伯父に強い感銘を受けました。
そして軍人になることを本望とし、両祖父にもそう望まれて成長しました。小学校時代は祖父に連れられて海軍記念日式典に参列したり、林八の恩賜時計や短剣に見入り、福山城跡に立つ林八の忠魂碑を友達に自慢していました。
こうしているうちに、幼い頃からの繁和の願望も敗戦によって、中学2年半ばで儚い夢と消えました。 戦後は中学、新制高校で野球こそ我が命と若い情熱を傾けましたが、残念ながら野球王国広島では勝利の女神は微笑まず、目指す甲子園の地は踏まずに終わりました。そして東京六大学での丸い帽子を夢見ましたが、当時2人の兄が大阪におり、東京への受験は許されず、ましてや戦後の経済変動の激しい時期、3人の学資にたまらず田舎に居残りさせられました。1年間、母校のコーチをしたり、会社野球に加勢したりなどの浪人生活を過ごしました。
そして、東京の丸帽にあこがれたが、ままならず当時は関西の丸帽であった関西学院大学に入学したものの、それも新制大学と変わり丸帽は夢となりました。
こうして大学2年の夏も過ぎた時に、級友の東京六大学での活躍に刺激されてか、ついハリキリ過ぎて肩を壊し、落ち目が続いて長い野球生活に終止符を打ちました。
そして、勉強に精を出す気になり、頑張りました。しかし、卒業時は就職難の時でもあり、最初に決まった商社の経営難を耳にして辞退した時には、就職活動も終盤となっており、野球の腕でようやく探し出したのが塗料会社でした。入社して資材、倉庫、製品発送、経理へと部署を変わり、営業部門に配属され、官公庁入札、特約店回りから需要先開拓係となり、メーカー、工事会社や百貨店直販まで、間接部門の職場を転々としました。
この5年間に渡って得た経験が、新しい仕事に取り組む際、大きな自信となりました。また、就職難の時代に低い給料に甘んじて下宿生活や独身寮生活の体験をした本人にとって働く者の立場に深い理解を示す人間になれたということです。そして、企業経営にとって労使が信頼し協調することが、いかに重要な基盤であるかを学びました。
若くして大工となり、20才の徴兵検査後には地元の小学校々舎を請け負うまでになった祖父は、なかなかの事業家でもありましたし、いつの日からか和洋家具製造に転じて今日の府中家具業の草分け的存在になりました。また神仏を崇拝することは人一倍で、むしろ分不相応な寄進もあえてするという人でした。繁和の幼少の頃にはかなりの資産も蓄えていたようで、父も教育者であったが、家計は祖父まかせで収入は全て田畑や株式に投資していたようです。
「米糠3合あっても養子に出すな」と諺にもありますが、繁和がそうなったのには、次のようなドラマがありました。
冬休みに入ると田舎に帰郷することにしていた繁和でしたが、一ヶ月ほどが待てず無性に故郷の空気に接したく、汽車に何の準備もなく飛び乗りました。永年、野球一途に少年時代を送った彼でしたが、いよいよ野球ともお別れだと決意したからです。(彼は彼なりに自分の人生を描いていたし、それに賭けていた未来から新しい現実への転換にはそれなりの時間を要したからでしょう)我が家に帰りついたのは日もとっぷりと暮れた頃でしたが、人の気配に気づいた母親が出て来て繁和の顔を見るなり「何で帰ってきたの」という。母の異様な雰囲気に一早く気づき、返事とは反対に「何かあったの」と問い返したのでした。
日本軍の連戦連勝を伝えていた18年の秋、祖父がこの世を去り、しばらくは女手で続けていた家業も戦争の激しさと共に工場も倉庫も軍需物資の格納に徴用されたため中止せざるを得なくなりましたが、戦後ようやく需要もあるようになりました。父は永年勤めていた教員生活を終え、家業再建に立ち上がりました。収入が無くなった時から、商売が軌道に乗るまでの間、何とかしようと思ってのことか、30年間の退職金や蓄えていた貯金や株券まで、ある事業家というかむしろペテン師といえる人に貸したり保証していたそうです。それが全く返済される見込みが立たない状況でした。揚句の果て、途方に暮れた父親は朝から無断で出かけて行方がわからないということでした。
戦後の変革が大きかったこともありますが、先祖から受け継いだ田畑は取り上げられ、永年の労苦の末に得たものまでも無にした父親は、子供達に申し訳ないと泣いていたようです。繁和も事の重大さに為す術もなく、口も聞けなかったが、かろうじて「母さん僕がペテン師を探して来てあげる、心配せんでええ」と、語りかけるのがやっとでした。「虫が知らせたんやなあ」と、遅い夕食の準備にとりかかった母の後を追って「そいつのとこ、どこや」と、話を聞いた繁和は夕食どころではないと自転車に飛び乗りました。無我夢中で走ってはみたものの、探す相手がいるはずもなく、火の気もない家の前に一人力無く佇む父親を見たのでした。
「おやじ帰ろうや」わざと、乱暴に口走って自転車の後ろに乗るように促した後は、父親も繁和もただ無言のまま、早く我が家にたどり着き、母親を安心させなくてはと懸命にペダルを踏むのみでした。家に帰っても両親の間には、既に話も尽くされていたのか会話もなく、ただ一言、母から労いの言葉が我が子にかけられただけでした。繁和自身も奥の仏壇を前にした部屋に向かい合う両親に対して、何も問いかける気にもなれず沈黙を続けるしかありませんでした。
その時、突然繁和の口から「オヤジ、ワシは養子にいくわ、家の財産一銭もくれ言わへん」と、はき出すように叫びました。失意の中に、新たな将来を模索するような思いで我が家に帰った繁和には、そんな感傷すら許されない現実にあたかも考えあぐねた結果であったかの如く、養子行きを決心させたのかもしれません。
子供達に申し訳ないという父の気持ちが、学業半ばの末っ子の思いもかけぬ言葉を耳にしたことから、気分的にも楽になったのか、夫婦の間で今日一日の出来事などについての会話が始まりました。
繁和は、大声でしゃべった時にはそれほどまでに考えていませんでしたが、だんだん「これでいいのや」と決意が固まるにつれて、涙が流れるのを抑えて席を立ちました。
STORY 09
重大発言
新婚旅行から帰宅した繁和にミツエは仏壇の前に来るように促して奥の間に去っていきました。朝夕唱えている般若心経のお勤めを始めたミツエの背中を繁和は怪訝な顔で見つめながら、まだ若さのある元気な声に聞き入りました。ミツエの重大発言は、亡夫和造をはじめ、先祖に報告して了解を受けた上で行われました。こういうことは、方法とその時と場所を配慮しないと効果が薄いものです。後々に及んだ経験からしても、ミツエの処置は、実に上手であったことに感心したものです。
さてこの時は、世話になった自分の勤める会社に対して、しばらく御礼の意味を込めて勤めるように、給料など頂かなくても良いという主旨でした。急に結婚が決まり式を終え、旅行に出た繁和も充分な仕事の引継ぎもしていないので、むしろ母に了解を得なければと悩んでいた本人にとっては出鼻をくじかれたような複雑な思いにかられたものでした。相手の立場になって物事を判断するとか、実行するとかということが欠けている今日、心しなければならないこととして強く印象づけられました。そして御礼働きも終え、いよいよ今日からという朝、また例のよう仏壇の前に呼ばれました。ただ異なることは、仏壇に印鑑が供えられていたことです。
会社関係の実印、銀行印など全てを「今日からあなたに預けるから宜しく頼む」ということでした。お互いの気持ちも充分に解り合えない結婚から3ヶ月余が過ぎた時です。会社の仕事について、西も東もわからない繁和にとっては、考えもしなかったことであり、一種の戸惑いすら感じながらも「それほど信頼してくれるのか、何とか頑張ってみなければ」と決心しました。信頼して仕事を任すということが、部下を育てる必須条件であることを身を持って教えられました。そしてあることに関する以外は、その後ただ一度も繁和のやることについて尋ねこそすれど、口を出すと言うことはありませんでした。
このあることとは、公私に渡って重要なことを実行する日と時間のことでした。吉年吉日を選ぶということには実に厳しかったし、絶対に譲ろうとしませんでした。万一あえて実行しようとすると例の場所に連れ出されて散々、油を搾られました。それ故、どうしても実施しなければならないことは、母に知らせないようにしました。そうした工作をするからには、絶対に失敗できない、確実に自信があることしかやりませんでした。
そんなことから、確信の持てない施策に関しては、出来る限り多くの人の意見を参考にし、反対意見にも耳を傾け、自信のあることには、多少の反対も無視して信念を持って進みました。しかし後年、強引に物事をやることが出来なくなったのは、突進精神の旺盛な若い時に比べ、少しは経験を積んだからで年輪を重ねるに従って決断が遅れ、何かを信じるようになるのではないかと、母を思い浮かべていました。
母は他にも人様の前に出る時には、それなりの身なりをしなければならない。相手に不快感を与えないよう、先様に礼を尽くすためです。見知らぬ方は、身なりでその人を評価します。大阪での生活があった繁和は、汚れの目立った作業服のまま銀行に出かけようとすることを、それほどに考えませんでしたが、昔からの古いしきたりと伝統に生きる京都での処世術を教えられました。
「10年足らずの間、同じ屋根の下に暮らしていた私には、それこそ箸の上げ下げから挨拶での頭の下げ方、言葉尻まで数え上げれば限りないくらい、本当によく気を付けて注意してくれました。当時はもちろん、いい気がするはずもなく、腹が立って口も交わさない日が何回かあったことを覚えています。」 と、繁和が人にもたらす母へのしみじみとした述懐こそ、母の一言一言が、どんな企業経営指導書にもまして、立派な二世教育をしていたと敬服すると共に、歳月を経るに従ってその味わいも増し、今後もなお共に生き続けるだろうと信じてやみません。
STORY 10
永遠の旅立ち
それは昭和43年の11月のお火焚祭の朝でした。いつもこうした祭事をするときは、誰よりも早くから準備して張り切るというミツエでしたが、当日は余程疲れていたのか、約束の時間になってもまだ寝ているといった様子で、延期の提案にも毎年同じ日に行っているので変更することは出来ないと体調が悪いなか参加しました。
そして、今まで通りに第一線を退いてからは常にそうでしたが、皆のやっていることが都合よくいくように、そして社員一同の幸せを祈るという、最後の行事も終えて帰りの車中で倒れ一時は苦しみましたが、それも乗り越え一旦元気を取り戻しました。しかし家族や親戚の人達とも楽しく語らい、最後は付き添った人もわからないといえる程に、眠るが如く大往生を遂げました。同年12月6日、享年68歳でした。
人間の一生、いわゆる最後の一瞬が最もその人を語るものであるといわれていますが、常に自分の事は考えず、人のために尽くすことのみ考え、実行してきた一生にふさわしいものでした。
「生者必滅」、「会うは別れの始め」とか、古今東西を通じて世の無情や儚さを言葉に託すものは数多く見受けられるが、その実感たるや、やはりその場に至らなければ分からないという真理こそ、人の世であろうか。
戦後の荒廃からようやく立ち直り、世界の一流国へと蘇った国土。若くして夫と共にめっき業に入り、創業の苦しみ、戦争の痛手、夫との死別と、数え切れない辛苦の50年を強く生き抜き、守り育てた事業も、ようやく花が咲き実を結ぶという時期に。しかも、晩年神仏への帰依を唯一の楽しみとした人にふさわしく、例年のお火焚祭の行事を無事終えられた帰途、病に倒れ、そして眠るが如く大往生をとげられた-貴方-。どんなに皆が悲しんだか。
私たちが、創業者達の人柄について、到底書きつくせるものではありませんが、創業者達がこのような方であったと少しでもわかって頂ければ幸いです。
終わり
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